月曜日 9月28日 侵入

問2 創世記3:1-6の中で蛇がエバに何と言ったかを読んで下さい。それを聞いたエバは、善悪を知る木についてどう思ったでしょうか。

 

★創世記3:1-6

1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました
」。
4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです
」。
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

 

この6節間の間には人類史上もっとも残念な事件が記録されています。

今回の学びは教育ということで、テキストには、神がアダムとエバにエデンというクラスの中で、環境を整えて、彼らの創造主のことを学ぶための機会を与えられたという設定をされています。

 

サタンの心境としては、何とかこの無邪気なエバを唆して罪を人類に吹き込もう、そして人類を自分と共に滅ぼそう、そうすれば自分の正当性や神の律法の間違いが明らかになる・・・そういった目論見があったのです。

 

1節で、へびは巧みにエバに語りかけます。その前に、わたしの記憶では、EGホワイトは当時のへびは非常に美しく、羽があったと記録しています。なので、知恵の木に美しいへびが休んでいて、あたかもエバが来るのを待っているような場面だと思います。

彼女の目にはへびは美しく映っています。

 

そもそも知恵の木は何のために置かれていたのでしょうか。「知恵の木は、彼らの神に対する服従と愛を試みるためにおかれた」と書かれています。(人あ第4章)

サタンの得意わざは、欺瞞です。この部分を読むと、エバの迂闊さというか、天使の言葉にも注意も向けなかったのです。つまり、天使は危険を察知していて、夫のところから離れないようにと、天使は彼女に注意していたのです。でもしごとに夢中になりはぐれてしまったのです。身の危険を感じたが、自分には悪を退ける知恵と力があると考えて恐怖を静めた。天使の注意に気をとめなかったと書かれています。それから彼女は好奇心と賛嘆のまじった思いで実をながめ、その非常に美しい実をなぜ神は食べるのを禁じられたのだろうと疑問に思った・・・それから、へびは「音楽のような声で、彼女のすばらしい美しさを巧みにほめ続けた。その声は不快ではなかった。・・・・」ということです。

 

確かに目に美しいものは心を奪われます。へびにしろ、木の実にしろ、褒め言葉も含めて。

彼女はその場から離れませんでした。へびが話すのを聞いていたのです。確かに恐怖心はあったようですが、「目を疑うばかりのへびが、堕落した敵に用いられるとは夢想だにしなかった」という状況だったのです。

 

これらの描写は、EGホワイトしかわかりません。聖書には詳細が書かれていないからです。

 

しかしそういった状況より、大切なことは、神への信仰です。

神が「食べたら死ぬ」と言われたのに、それを無視して、へびの行ったことを選択したところに彼女の愚かさがあります。

へびの言葉「 園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか

この質問は巧みです。これは神の権威に挑戦する言葉なのでした。神を神として認めていません。エバが答えると、4節

あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです

死ぬと神が言われたのに、それを覆しています。

6節、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、」

この言葉の意味するところは、実を見ると、おいしそうに見える、へびが言うことが正しいなら、食べて賢くなってみたい神のようになってみたい・・・と思ったかもしれません。つまり、サタンの側を選択したわけです。

 

エバは、神のご命令を軽んじ、天使の警告を無視し、ついには、サタンの思う壺にはまってしまった!!

エバは何もこの木の実を食べなくてもほかにたくさんのおいしい実があったはずです。しかし単純な神のテストには不合格になってしまいました。

 

私たちの自由意志は、現代の木の実である聖書の神に服従するかしないか、自由な選択肢が与えられています。そのように創造されているからです。強制されないのがこの聖書の神です。しかし、多くの現代の狡猾な指導者に操られないように気をつけたいものです。

 

いろいろ書いてしまいましたが、

答えは、テキストに書かれていますが、彼女は真剣に受け止めなかった、ということです。

 

 

 

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| 安息日学校聖書研究 | 17:23 | comments(0) | - | - | - |

日曜日 9月27日 最初の学校

問1 創世記2:7−23を読んで下さい。アダムを創造し、園に置き、お用いになった神のご意思にちて、何かきづくことがありますか。

 

★創世記2:7−23

7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた
9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
10 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。
11 その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、
12 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。
13 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。
14 第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテ
である。
15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう
」。
18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。

 

 

主は人を創造され、神に似せて創造され、命の息を吹き入れられて生きる者とされ、エデンに置かれました。水があり、鳥、植物、家畜、獣、すべては完全で、人が住むのに非常に良い環境を与えておられました。

しかも仕事を与えられ、園を耕させ、守るという責任も与えられました。何かをすることは満足感や充足感を与えます。

またエバという助け手も彼のあばら骨から創造され、アダムは彼女を大変気に入りました。主がアダムに伴侶を与えられたのです。

主はすべて私たちの必要をご存知であられます。

 

ただし、主は律法を与えておられました。16節の言葉です。

自由というのはある責任が伴います。それは主によるものです。アダムが天使たちのように従順かそうでないかの試金石が、善悪の知識の木としておかれました。そして、それだけからは食べてはならない、死ぬから、と言われていたのです。

 

この二人は主という偉大な教師からすべてを教えられていたのですが、当然、この死ぬという意味をわかっていたのでしょうか。

EGホワイトによると、知らされてなかったと書かれていました。しかし、それが罪を犯した根拠とはなり得ません。

彼らが罪を犯した後、はじめて主は、彼らに罪の結果について教えておられます。それは創世記3:16-18です。

 

 

 

■枠の中の質問。

私たちはエデンから遠く離れていますが、今でも自然界から教訓を学ぶことができます。そのような教訓には、どのようなものがありますか。聖書に照らしてそれらの教訓を解釈するとき、私たちはどのように恩恵を得られるのでしょうか。

 

 水の循環があります。

★創世記2:5−6

5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
6 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。

★伝道1:7

7 川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。

★ヨブ38:22

22 あなたは雪の倉にはいったことがあるか。ひょうの倉を見たことがあるか。
23 これらは悩みの時のため、いくさと戦いの日のため、/わたしがたくわえて置いたものだ。

 

学校で習わなくても、水の循環のことがすでに何千年も前に書かれていました。

 

聖書はすごい!!

ほかには、地球が宙に浮いていることなども記述があります。星、レビヤタンなど。

 

 

 

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| 安息日学校聖書研究 | 17:04 | comments(0) | - | - | - |

歴代志下 II-D-13 ヒゼキヤ その7

【歴代志下】・・・代上からの続き。

※スタディバイブル、EGW著書その他

 

II. エルサレム王の歴史。10:1-代下36:23

 D. ユダの諸王。10:1〜36:21

    13. ヒゼキヤ。29:1-32:33

    14. マナセ。33:1-20

    15. アモン。33:21-25

    16. ヨシヤ。34:1-35:27

    17. エホアハズ。36:1-4

    18. エホヤキム。36:5-8

    19. エホヤキン。36:9-10

    20. ゼデキヤとユダ崩壊。36:11-21

 

 

■歴代志下32:24-33(32章終り)

24 そのころ、ヒゼキヤは病んで死ぬばかりであったが、主に祈ったので、主はこれに答えて、しるしを賜わった。
25 しかしヒゼキヤはその受けた恵みに報いることをせず、その心が高ぶったので、怒りが彼とユダおよびエルサレムに臨もうとしたが、
26 ヒゼキヤはその心の高ぶりを悔いてへりくだり、またエルサレムの住民も同様にしたので、主の怒りは、ヒゼキヤの世には彼らに臨まなかった。
27 ヒゼキヤは富と栄誉をきわめ、宝蔵を造って、金、銀、宝石、香料、盾および各種の尊い器物をおさめ、
28 また倉庫を造って穀物、酒、油などの産物をおさめ、小屋を造って種々の家畜を置き、おりを造って羊の群れを置き、
29 また多数の町を設け、かつ羊と牛をおびただしく所有した。神が非常に多くの貨財を彼に賜わったからである。
30 このヒゼキヤはまたギホンの水の上の源をふさいで、これをダビデの町の西の方にまっすぐに引き下した。このようにヒゼキヤはそのすべてのわざをなし遂げた。
31 しかしバビロンの君たちが使者をつかわして、この国にあった、しるしについて尋ねさせた時には、神は彼を試みて、彼の心にあることを、ことごとく知るために彼を捨て置かれた。
32 ヒゼキヤのその他の行為およびその徳行は、アモツの子預言者イザヤの黙示とユダとイスラエルの列王の書にしるされている。
33 ヒゼキヤはその先祖たちと共に眠ったので、ダビデの子孫の墓のうちの高い所に葬られた。ユダの人々およびエルサレムの住民は皆その死に当って彼に敬意を表した。その子マナセが彼に代って王となった。

 

 

 

この場面の話ももう皆さんご存知のことと思います。ヒゼキヤが高慢になったのです・・・・

関連した記述はイザヤ書38章39章です。

ここには、ヒゼキヤが預言者イザヤから預言を受けて、大いに悔い改めたこと、主が彼の命を15年生きながらえさせられたこと、そのあかしに、アハズの日時計を十度退かせられました。彼は病がよくなって、主を高らかに褒め称えています。39章には、ヒゼキヤのところに敵国バビロンのメロダク・バラダンの使者が送られ、それは、ヒゼキヤの病気が治ったことを聞いて、言わば単なる社交辞令であったようですが、ヒゼキヤは喜びのあまり、彼の持ち物を全部見せてしまいました。それを見た使者たちはもちろん上司に報告しますよ!! イザヤから再び預言が。それらの宝物はすべて敵国バビロンに持ち去られ、しかも子孫たちはバビロンで宦官となる・・・とまで預言があったのです。ヒゼキヤは自分の時代には起こらないので、「もう結構です」と言ってしまいました。

 

注解として、29章から。

  『「31 しかしバビロンの君たちが使者をつかわして、この国にあった、しるしについて尋ねさせた時には、神は彼を試みて、彼の心にあることを、ことごとく知るために彼を捨て置かれた。(歴代志下32:31)。もしヒゼキヤが、イスラエルの神の力と憐れみについてあかしを立てるために彼に与えられた機会を活用したならば、使者たちの報告は暗黒を照らす光となったことであろう。しかし彼は、万軍の主よりも、自分自身を賛美したのである。「 しかしヒゼキヤはその受けた恵みに報いることをせず、その心が高ぶった」(同上32:25)。』ということです。

 

キリスト教の本質は自分を捨てることです。自己放棄にあります。

旧約聖書の王たちのレッスンから、私たちは多くを学びます。

主のみ旨はヨハネ3:16「16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

すべてはキリストです。

 

 

 

「国と指導者」29章に詳しく説明があります。せっかくの改革者であったのに、ヒゼキヤは品性は変わらなかった。

このことは、私たち現代人も気をつけなければなりません。知識があっても、信仰があっても、品性が変わらないということは非常に落胆する原因になります。私自身もそうです。

10年以上も聖書からブログを書き、聖書を学び始めて30年を越えたのに、品性は変えられたでしょうか・・・

 

主人と話すのですが、あの写真、地球儀と小さな黄色い箱の写真です。あの黄色い箱は新しいエルサレムのサイズであり、限られた人しか入れません。聖書を学ぶ者、よくよく品性の変革を主に願わなければ・・・・。何のための学びかわからなくなります。

せっかく与えられた命です。サタンの側にいたのに、今イエスの側で生かさせていただいています。最後まで

諦めず、自分と愛する人々の命も祈りましょう。狭い門です。

 

 

 

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| 歴代志下 | 16:19 | comments(0) | - | - | - |

1課 安息日午後 9月26日 エデンの園における教育 (四期 「教育」)

第四期は、「教育」について学びます。クリスチャン教育とは何か。

 

★箴言9:10

10 主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。

神の栄光と力に驚嘆するように、畏怖の恐れ、

神の性格についての真理を学ぶのは、悟り、すなわち知恵、知識、理解、

これらのことは、神が源である。

 

★ヨハネ1:1–3

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった
2 この言は初めに神と共にあった
3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった

★コロ1:16、17

16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。

神はすべての存在の源であり

すべての存在を創造し、維持されている唯一のお方。

 

★エペソ3:10

10 それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、

私たちが学んだすべてのこと、知っていることは何でも、それらの存在は神によります。毛虫から、超新星、天使、悪魔まで。

 

★1ヨハネ4:8

8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

「創造と贖いの基礎である愛は真の教育の基礎です。これは、神が人生の導きとして与えられた律法で明らかにされています。最初の偉大な戒めは、「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」です。ルカ10:27。彼を愛することは、全知であり、全知であり、全知であり、心と心を持っていることは、あらゆる力の最高の発達を意味します。それは、肉体、心、そして魂のすべての存在において、神の像が回復されることを意味します。」—教育、p。 16.16。

 

★ヨハネ1:9

9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた

使徒ヨハネは、イエスを上記のように言いました。すなわち、イエスを通してのみすべての人間が命を持っているように、イエスを通してすべての人間は神の神聖な光線、超越した真理と善の理解を受け取ることができます。

 

★マルコ8:36

36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか

イエスはこのように言われましたが、もし第二の死に直面した場合、これまでのさまざまな分野の教育は役にたちますか?答えは明らかです。

 

以上のようなみ言葉から、今期「クリスチャン教育」とはどういう意味か、教会として、私たちが何らかの形で、すべてのこのような教育を受けることができる方法を見つけるにはどうすればよいかーということを研究します。

 


 

【暗唱聖句】

★ヨブ36:22

22 見よ、神はその力をもってあがめられる。だれか彼のように教える者があるか。

 

【今週のテーマ】

創世記1章から3章では、神に似せて造られた人類二人と神とサタンの物語の場面ですが、このエデンの二人に、神が直接彼らに、エデンという教室で人類を教育されていると捉えることができます。

サタンの登場により、彼らは神の教育とは逆の行動をとってしまいましたが、せっかく教育を受けておきながら、なぜこのような結果になったのか、現代人の私たちにどのように適用できるか、ということが今週のテーマです。

 

日曜日 最初の学校

月曜日 侵入

火曜日 メッセージを聞き逃す

水曜日 失われたものを取り戻す

木曜日 権威を侮る者たち

金曜日 さらなる研究 「人あ 上巻26,27より」。

 

「人類のあけぼの」をお読みになることをお奨めします。罪が入る以前の状態、罪がはいった後、どのように地球は変わったのか。

天候、植物、地形、すべてが変わったのです。

https://egwwritings.org/ 日本の国旗を探してクリック、EGW Writingsをクリック、PP-人類のあけぼの をクリック

章別に目次が出てきます。その第3章の終りのほうに描かれています。すばらしいことが描写されています。

続きを読む >>
| 安息日学校聖書研究 | 15:00 | comments(0) | - | - | - |

歴代志下 II-D-13 ヒゼキヤ その6

【歴代志下】・・・代上からの続き。

※スタディバイブル、EGW著書その他

 

II. エルサレム王の歴史。10:1-代下36:23

 D. ユダの諸王。10:1〜36:21

    13. ヒゼキヤ。29:1-32:33

    14. マナセ。33:1-20

    15. アモン。33:21-25

    16. ヨシヤ。34:1-35:27

    17. エホアハズ。36:1-4

    18. エホヤキム。36:5-8

    19. エホヤキン。36:9-10

    20. ゼデキヤとユダ崩壊。36:11-21

 

 

 

■歴代志下32:1-23 (前半)[セナケリブの侵入]

1 ヒゼキヤがこれらの事を忠実に行った後、アッスリヤの王セナケリブが来てユダに侵入し、堅固な町々に向かって陣を張り、これを攻め取ろうとした。
2 ヒゼキヤはセナケリブが来て、エルサレムを攻めようとするのを見たので、
3 そのつかさたちおよび勇士たちと相談して、町の外にある泉の水を、ふさごうとした。彼らはこれを助けた。
4 多くの民は集まって、すべての泉および国の中を流れる谷川をふさいで言った、「アッスリヤの王たちがきて、多くの水を得られるようなことをしておいていいだろうか」。
5 ヒゼキヤはまた勇気を出して、破れた城壁をことごとく築き直して、その上にやぐらを建て、その外にまた城壁を巡らし、ダビデの町のミロを堅固にし、武器および盾を多く造り、
6 軍長を民の上に置き、町の門の広場に民を集めて、これを励まして言った、

心を強くし、勇みたちなさい。アッスリヤの王をも、彼と共にいるすべての群衆をも恐れてはならない。おののいてはならない。われわれと共におる者は彼らと共におる者よりも大いなる者だからである。
8 彼と共におる者は肉の腕である。しかしわれわれと共におる者はわれわれの神、主であって、われわれを助け、われわれに代って戦われる
」。民はユダの王ヒゼキヤの言葉に安心した

9 この後アッスリヤの王セナケリブはその全軍をもってラキシを囲んでいたが、その家来をエルサレムにつかわして、ユダの王ヒゼキヤおよびエルサレムにいるすべてのユダの人に告げさせて言った、
10 「アッスリヤの王セナケリブはこう言います、『あなたがたは何を頼んでエルサレムにこもっているのか。
11 ヒゼキヤは「われわれの神、主がアッスリヤの王の手から、われわれを救ってくださる」と言って、あなたがたをそそのかし、飢えと、かわきをもって、あなたがたを死なせようとしているのではないか。
12 このヒゼキヤは主のもろもろの高き所と祭壇を取り除き、ユダとエルサレムに命じて、「あなたがたはただ一つの祭壇の前で礼拝し、その上に犠牲をささげなければならない」と言った者ではないか。
13 あなたがたは、わたしおよびわたしの先祖たちが、他の国々のすべての民にしたことを知らないのか。それらの国々の民の神々は、少しでもその国を、わたしの手から救い出すことができたか。
14 わたしの先祖たちが滅ぼし尽したそれらの国民のもろもろの神のうち、だれか自分の民をわたしの手から救い出すことのできたものがあるか。それで、どうしてあなたがたの神が、あなたがたをわたしの手から救い出すことができよう。
15 それゆえ、あなたがたはヒゼキヤに欺かれてはならない。そそのかされてはならない。また彼を信じてはならない。いずれの民、いずれの国の神もその民をわたしの手、または、わたしの先祖の手から救いだすことができなかったのだから、ましてあなたがたの神が、どうしてわたしの手からあなたがたを救いだすことができようか』
」。

16 セナケリブの家来は、このほかにも多く主なる神、およびそのしもべヒゼキヤをそしった。
17 セナケリブはまた手紙を書き送って、イスラエルの神、主をあざけり、かつそしって言った、「諸国の民の神々が、その民をわたしの手から救い出さなかったように、ヒゼキヤの神も、その民をわたしの手から救い出さないであろう」と。
18 そして彼らは大声をあげ、ユダヤの言葉をもって、城壁の上にいるエルサレムの民に向かって叫び、これをおどし、かつおびやかした。彼らは町を取るためである。
19 このように彼らがエルサレムの神について語ること、人の手のわざである地上の民の神々について語るようであった。
20 そこでヒゼキヤ王およびアモツの子預言者イザヤは共に祈って、天に呼ばわったので、
21 主はひとりのみ使をつかわして、アッスリヤ王の陣営にいるすべての大勇士と将官、軍長らを滅ぼされた。それで王は赤面して自分の国に帰ったが、その神の家にはいった時、その子のひとりが、つるぎをもって彼をその所で殺した。

22 このように主は、ヒゼキヤとエルサレムの住民をアッスリヤの王セナケリブの手およびすべての敵の手から救い出し、いたる所で彼らを守られた。
23 そこで多くの人々はささげ物をエルサレムに携えてきて主にささげ、また宝物をユダの王ヒゼキヤに贈った。この後ヒゼキヤは万国の民に尊ばれた。

 

アッシリアの王セナケリブは、神に挑戦したようなものでした。

アッシリアは、一時期神に用いられはしましたが、ヒゼキヤはイザヤによって人々に伝えられた預言を覚えていました。

★イザヤ10:5、24−27

5 ああ、アッスリヤはわが怒りのつえ、わが憤りのむちだ。

24 それゆえ、主、万軍の主はこう言われる、「シオンに住むわが民よ、アッスリヤびとが、エジプトびとがしたように、むちをもってあなたを打ち、つえをあげてあなたをせめても、彼らを恐れてはならない。
25 ただしばらくして、わが憤りはやみ、わが怒りは彼らを滅ぼすからである。
26 万軍の主は、むかしミデアンびとをオレブの岩で撃たれた時のように、彼らにむかって、むちをふるわれる。またそのつえを海の上にのばし、エジプトでなされたように、それをあげられる。
27 その日には、彼の重荷はあなたの肩からおり、彼のくびきはあなたの首から離れる
」。

 

また、アハズ王が亡くなった時にもイザヤが預言していました。

★イザヤ14:28、24−27

24 万軍の主は誓って言われる、「わたしが思ったように必ず成り、わたしが定めたように必ず立つ。
25 わたしはアッスリヤびとをわが地で打ち破り、わが山々で彼を踏みにじる。こうして彼が置いたくびきは/イスラエルびとから離れ、彼が負わせた重荷は/イスラエルびとの肩から離れる」。
26 これは全地について定められた計画である。これは国々の上に伸ばされた手である。
27 万軍の主が定められるとき、だれがそれを取り消すことができるのか。その手を伸ばされるとき、だれがそれを引きもどすことができるのか。

28 アハズ王の死んだ年にこの託宣があった

 

そのようなわけで、ヒゼキヤは、7~8節にある通り、民を強めることができたのでした。

  『圧制者の力はくじかれるのであった。しかしヒゼキヤは彼の治世の初期においては、アハズが結んだ協定に基づいてアッスリヤに貢ぎ物を納めていた。一方王は「つかさたちおよび勇士たちと相談して」、王国を防衛するためにできる限りの手をつくした。彼は、エルサレム城内においては水の供給が十分あるようにする一方、城外では水が欠乏するようにした。ヒゼキヤはまた勇気を出して、破れた城壁をことごとく築き直して、その上にやぐらを建て、その外にまた城壁を巡らし、ダビデの町のミロを堅固にし、武器および盾を多く造り、軍長を民の上に置」いた(歴代志下32:3、5、6)。包囲に備えて、なし得ることでしなかったことは何1つなかった。 {PK 521.4}』

 

水は生きる上で最も大切な物質です。王は賢くも敵に水が行かないよう整えました。

一方北の10部族のイスラエル国では、すでにアッシリアによってサマリヤが占領し、10部族をアッシリヤ領土のあちこちに離散させてしまっていました。イザヤによって預言されていた言葉によって、ユダの王は神に信頼を置きました。神が戦われるのだ!!と民を励ましたのです。ヒゼキヤはイスラエルに起こった出来事を見て、ユダの危機を感じていました。それでこのことに備える必要があったのです。

 

アッシリヤの軍勢にはよく訓練された軍士たちがいましたが、彼らの行ったことは神に対する無礼なあざけりでした。セナケリブの将軍の一人、ラブシャケは傲慢にも神とヒゼキヤを謗りました。

列王紀下19章には詳しく書かれています。預言者イザヤはヒゼキヤに心配には及ばないことを伝えます。一夜にして18万以上の兵士が滅ぼされ、また、アッシリア王の運命も一晩で変わりました。

 

★列王紀下19:

14 ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ、
15 そしてヒゼキヤは主の前に祈って言った、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。
16 主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてごらんください。セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉をお聞きください。
17 主よ、まことにアッスリヤの王たちはもろもろの民とその国々を滅ぼし、
18 またその神々を火に投げ入れました。それらは神ではなく、人の手の作ったもので、木や石だから滅ぼされたのです。
19 われわれの神、主よ、どうぞ、今われわれを彼の手から救い出してください。そうすれば地の国々は皆、主であるあなただけが神でいらせられることを知るようになるでしょう
」。

・・・・

32 それゆえ、主はアッスリヤの王について、こう仰せられる、『彼はこの町にこない、またここに矢を放たない、盾をもってその前に来ることなく、また塁を築いてこれを攻めることはない。
33 彼は来た道を帰って、この町に、はいることはない。主がこれを言う。
34 わたしは自分のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守って、これを救うであろう
』」。
35 その夜、主の使が出て、アッスリヤの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆、死体となっていた。
36 アッスリヤの王セナケリブは立ち去り、帰って行ってニネベにいたが、
37 その神ニスロクの神殿で礼拝していた時、その子アデランメレクとシャレゼルが、つるぎをもって彼を殺し、ともにアララテの地へ逃げて行った。そこでその子エサルハドンが代って王となった。

 

 

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| 歴代志下 | 06:16 | comments(0) | - | - | - |

金曜日 9月25日 さらなる研究

『教会への証』の引用文がありましたが、本当にホワイト姉妹の言うとおりです。

今日、発展していない教会というのは、教会員がさまざまな理由をつけて、伝道していません。

個人聖書研究であっても、忙しい牧師を呼びつけ彼にさせるのです。本来は教会員一人ひとりが求道者を導く、すなわち弟子を作るだけの知識があるにも関わらずです。

 

教会は家庭聖書研究のために、さまざまなテキストも準備しています。そうであってもなぜか、牧師に頼る。そうであってはならないのです。

★ヘブル5:

12 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。
13 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。
14 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。

 

12節の「久しい以前からすでに教師となっているはずなのに」と書かれています。一人ひとりが聖書のてほどきの教師、み言葉による人生の教師ともなっていなければならないのです。しかし、そこがサタンの罠でした。

この聖句は全体的には少し意味合いは違うかもしれませんが、十分に真理です。牧師も牧師です。教会員が呼んだとしても、この聖句を用いて、自分たちでやりなさい、わからないときは援助しますから、といって、自主的に研究するよう励ますべきだと思います。教会の信仰の大要はすばらしいことが書かれています。それを一つ一つやるだけでも十分研究できます。

 

■話し合いのための質問。

 

ゞ睛貌のエレン・G・ホワイトの引用文において、中心的な考えは何ですか。それはあなたの個人的なあかしや、あなたが所属する教会の伝道活動に、どのような影響を及ぼしますか。

 

中心的考え:熱心な伝道活動の必要。そのための個人的タラントの活用。

 

どのような影響を及ぼすか:個人的あかしが一番強力ですが、あらゆる機会を捉えて伝道活動をするという重要性を認識してもらいたい。ドアからドアの奉仕だけでなく、家族、友人、知り合い、など。それは日ごろの生き方が影響します。

 

⊇秧茲憤Δ蓮△い弔發匹里茲Δ砲△蕕錣気譴泙垢。純粋な愛とはほとんど関係のない偽りの愛とは、どのようなものですか。

純粋な愛:自己犠牲を意識しない行動の表れ。喜んで相手のために何かを行う。

 

偽りの愛:言葉だけ。行動がない。あったとするならば、何か利己的裏がある。自己犠牲を嫌がる。

 

0詑日学校のクラスで、(命を失うことも含めて)人々が主のために払った犠牲について話し合ってください。それらの物語から、あなたは何を学ぶことが出来ますか。

人々が主のために払った犠牲は、彼ら自身、犠牲として考えずに行動したのだと思います。喜んで行えるからです。

主が喜ばれるならば、犠牲は辛いことではなくなります。そこには愛があるからです。

 

人類史上、使徒のみならず、多くの人々が主のために命を失いました。しかし彼らが眠りから目覚める時がきます。

主のために命をなくすことがあっても、死んでも生きるということが他の宗教ともっとも違う部分です。

しかも永遠という報酬が待っています。聖書のために命を失っても、聖書の神は勝利しています。

 

私たちは、以前は永遠に死んでいました。しかしながら、キリストの十字架により、彼を受け入れることによって永遠の命に移されたのです。何と言う恵みでしょう。しかしそれ以前の人々も聖書ゆえに命をなくしましたが、復活が与えられます。

ハレルヤ!!

 

 

今週の学びは、私にとっては少し難しかったです。でも素晴らしい学びを感謝します。

 

 

 

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| 安息日学校聖書研究 | 05:21 | comments(0) | - | - | - |

木曜日 9月24日 愛の誓い

各時代の希望、第85章「もういちど海辺で」のところに、ペテロとイエスのことが詳しく書かれています。

ペテロの品性はイエスの愛によって変えられ、歴史に名を残すほどの使徒たちの一人になりました。本当にイエスの使徒たちの働きは凄いの一言です。しかも彼らの動機はイエスに対する愛でした。

ペテロの弱さは強さに変わりました。 以前イエスは、涙ながらにイエスに香油を塗った女に「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(ルカ7:47)と言われましたが、これはペテロにも言えると思います。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない、すなわち、多くゆるされた者は多く愛する。この聖句は思い出深い聖句です。主は、罪深い私を豊かに赦して下さった。私もペテロも何の違いがありましょう。同じ罪人です。

 

問8 ヨハネ21:8-9を読んで下さい。.ぅ┘垢魯撻謄蹐法弟子であることの犠牲について、何と言われましたか。▲ぅ┘垢呂覆次▲撻謄蹐凌誉犬里海了点で、彼を驚かすようなことを明らかにされたのだとあなたは思いますか。

 

★ヨハネ21:8-9

18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

 

,療え:18節の手をのばすということは、彼が十字架につけられることを意味しています。彼の殉教を示されました。

△療え:今は、イエスが昇天される直前でありました。ペテロは神としてのイエスを愛するようになったとあかしのふみに書かれていますが、人間イエスの姿であってもイエスを神として愛するかどうか確認される必要があったのではないかと考えます。ペテロの立場の人々はいつも信仰が試されると思います。なぜなら、サタンの攻撃は弱さを攻撃してそこから潰しにかかるからです。ましてやペテロは殉教が示された。神への愛が強くなければ殉教までの決意はわかりません。死をも超越する強い愛がなければそれは危うくなります。

 

 

  『福音は悪と妥協しない。それは罪をみのがすことができない。ひそかな罪はひそかに神に告白すべきである。しかし公然の罪には公然の告白が必要である。 {DA 1104.2}

弟子たちの罪に対する非難はキリストにあびせられる。それはサタンを勝利させ、動揺する魂をつまずかせる。悔い改めの証拠を示すことによって、この弟子は、力のおよぶかぎり、この非難をとりのぞくのである』(DA、85章)

 

  『このようにイエスは、ペテロがどんな死に方をするかをお知らせになった。イエスはペテロが十字架上で手をひろげることまで予告された。そしてふたたびイエスは、この弟子に、「わたしに従ってきなさい」と言われた(ヨハネ21:19)。ベテロはこのように示されたことによって落胆しなかった。彼は主のためにどんな死でも喜んで受けたいと思った。 {DA 1106.1}

いま多くの人々がそうであるように、ペテロはそれまで肉体をとられたキリストしか知らなかった、しかしいまはもうこのような限られた見方はしなかった。彼は、人性をとられたキリストと交わっていた時のような見方はもうしなかった。彼はイエスを1人の人、天からつかわされた教師として愛していたが、今はイエスを神として愛した。彼は、キリストが自分にとって何ものにもかえがたいお方であるという教訓を学んできたいま彼は、主の犠牲の使命にあずかる用意ができたついに十字架の前につれてこられた時、彼は、自分からたのんで、さかさまにはりつけられた。彼は主と同じ方法で苦難を受けることはあまりに名誉すぎると考えたのであった。 {DA 1106.2}』

 

  『ペテロにとって、「わたしに従ってきなさい」ということばは教訓に満ちていた(ヨハネ21:19)。この教訓は、彼の死についてばかりでなく、彼の人生の1歩1歩について与えられた。それまでペテロは自分勝手に行動する傾向があった。彼は、神の計画を実行するために待とうとしないで、自分が神の働きのために計画しようとした。 {DA 1106.3}

しかし、主よりも先に突進しても、何も得るところがなかった。イエスは彼に、「わたしに従ってきなさい」と命じられる。わたしより先に走ってはならない。そうしたら、あなたは1人でサタンの軍勢に対抗しなくてもよいのだ。わたしをあなたより先に行かせなさい。そうしたら、あなたは敵にうち負かされることがないであろう。 {DA 1106.4』

 

 

問9 Iヨハネ3:16−18を読んで下さい。|韻砲△い泙い蔽蠑歸概念としての愛に置き換わるヨハネの愛とは、どのようなものですか。彼は愛の究極的な犠牲を、どのように定義していますか。

 

★Iヨハネ3:16−18

16 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。
17 世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。
18 子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。

 

,療え:主がわたしたちのために命を捨ててくださって愛を教えられた。ならば、私たちも兄弟のために命を捨てるべき。

キリストは以前かたられました。「13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)。

△療え:口先だけでなく、行動と真実さをもって愛し合う。

 

愛は私たちに備わっているものではありません。天から与えられるものです。そして愛を他の人に分け与える時、それは双方にとっての祝福となります。キリストの愛は、愛の潮流という言葉で表されますが、それは清らかな純粋な川の水の流れのように、それを受ける人に与えられます。また接触するすべての人にも豊かに与えられます。九つの霊の実はこうして表されます。

キリストにあって私たちの生かされている理由、存在価値がわかります。

やさしい愛、愛に基づく思いやりを静かに行動によって示すとき、相手も周囲の人々も、空気さえも変わります。それは犠牲を越え、幸福感に満たされる瞬間ではないでしょうか。ヨハネはそのようなことを意味していたかもしれません。

 

 

今日も、良い学びを感謝します。

 

 

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| 安息日学校聖書研究 | 06:06 | comments(0) | - | - | - |

歴代志下 II-D-13 ヒゼキヤ その5

【歴代志下】・・・代上からの続き。

※スタディバイブル、EGW著書その他

 

II. エルサレム王の歴史。10:1-代下36:23

 D. ユダの諸王。10:1〜36:21

    13. ヒゼキヤ。29:1-32:33

    14. マナセ。33:1-20

    15. アモン。33:21-25

    16. ヨシヤ。34:1-35:27

    17. エホアハズ。36:1-4

    18. エホヤキム。36:5-8

    19. エホヤキン。36:9-10

    20. ゼデキヤとユダ崩壊。36:11-21

 

 

 

■歴代志下31章

1 この事がすべて終った時、そこにいたイスラエルびとは皆、ユダの町々に出て行って、石柱を砕き、アシラ像を切り倒し、ユダとベニヤミンの全地、およびエフライムとマナセにある高き所と祭壇とを取りこわし、ついにこれをことごとく破壊した。そしてイスラエルの人々はおのおのその町々、その所領に帰った。
ヒゼキヤは祭司およびレビびとの班を定め、班ごとにおのおのその勤めに従って、祭司とレビびとに燔祭と酬恩祭をささげさせ、主の営の門で勤めをし、感謝をし、さんびをさせた。
また燔祭のために自分の財産のうちから王の分を出した。すなわち朝夕の燔祭および安息日、新月、定めの祭などの燔祭のために出して、主の律法にしるされているとおりにした
4 またエルサレムに住む民に、祭司とレビびとにその分を与えることを命じた。これは彼らをして主の律法に身をゆだねさせるためである。
5 その命令が伝わるやいなや、イスラエルの人々は穀物、酒、油、蜜ならびに畑のもろもろの産物の初物を多くささげ、またすべての物の十分の一をおびただしく携えて来た。
6 ユダの町々に住んでいたイスラエルとユダの人々もまた牛、羊の十分の一ならびにその神、主にささげられた奉納物を携えて来て、これを積み重ねた。
三月にこれを積み重ねることを始め、七月にこれを終った
ヒゼキヤおよびつかさたちは来て、その積み重ねた物を見、主とその民イスラエルを祝福した。
9 そしてヒゼキヤがその積み重ねた物について祭司およびレビびとに問い尋ねた時、
10 ザドクの家から出た祭司の長アザリヤは彼に答えて言った、「民が主の宮に供え物を携えて来ることを始めてからこのかた、われわれは飽きるほど食べたが、たくさん残りました。主がその民を恵まれたからです。それでわれわれは、このように多くの残った物をもっているのです」。
11 そこでヒゼキヤは主の宮のうちに室を設けることを命じたので、彼らはこれを設け、
12 その供え物の十分の一および奉納物を忠実に携え入れた。これをつかさどる者のかしらはレビびとコナニヤで、その兄弟シメイは彼に次ぐ者となり、
13 エヒエル、アザジヤ、ナハテ、アサヘル、エレモテ、ヨザバデ、エリエル、イスマキヤ、マハテ、ベナヤらは、ヒゼキヤ王および神の宮のつかさアザリヤの任命によって、コナニヤおよびその兄弟シメイを助けて、その監督者となった。
14 東の門を守る者レビびとイムナの子コレは、神にささげる自発のささげ物をつかさどり、主の供え物および最も聖なる物を分配した。
15 彼を助ける者はエデン、ミニヤミン、エシュア、シマヤ、アマリヤおよびシカニヤで、皆祭司の町々でその兄弟たちに、班によって、老若ひとしく忠実に分配した。
16 ただしすべて登録された三歳以上の男子で主の宮に入り、その班に従って日々の職分をつくし、その受持の勤めをなす者は除かれた。
17 祭司の登録はその氏族によってなされ、二十歳以上のレビびとの登録はその班により、その受持にしたがってなされた。
18 また祭司はその幼な子、その妻、そのむすこ、その娘、全会衆と共に登録した。彼らは忠実に身を聖なる事にささげたからである。
19 また町々の放牧地におるアロンの子孫である祭司たちのためには、町ごとに人を名ざし選んで、祭司のうちのすべての男およびレビびとのうちの登録されたすべての者に、その分を与えさせた。
20 ヒゼキヤはユダ全国にこのようにし、良い事、正しい事、忠実な事をその神、主の前に行った
21 彼がその神を求めるために神の宮の務につき、律法につき、戒めについて始めたわざは、ことごとく心をつくして行い、これをなし遂げた。

 

 

ここまでは、素晴らしいユダ王国の繁栄でありました。それは、何分にもヒゼキヤの律法に対する忠実さによるものでした。神への心からの奉仕は限りなく祝福が伴うのですね。王だけでなく、レビ人、祭司、国民すべての人々が主にあって一致忠実、祝福と喜びと賛美、これこそが主ご自身のお喜びです。

 

グローバリストなどという言葉が聞かれますが、これはキリストにあっての言葉だと思います。人間の未熟で欲にまみれた思想では決してそのようにはなり得ません。

 

ヒゼキヤの宮の回復は、王位に就くとすぐに計画を立てて実行されました。祭司やレビ人に協力を求めましたが、あかしのふみによると、それは協力を熱心に求めた、素直に彼らに語った、と記録されています。そこには王として威圧的に命じたのではなく、彼らに遠大な改革を行うための協力を願ったのです。国の罪を改めなければ、神の災いがすぐそこまでやってきていました。天使は待ち構えていたのです。すぐにでも悔い改めと改革がなされなければ国は滅ぶ一歩手前でした。熱心に彼らを説き伏せ、直ちに行動しなければなりませんでした。やがて彼らが動き出し、神殿は回復し、聖所の務めを再開する準備が整い、最初の礼拝では、王、祭司とレビ人、町のつかさたちと心をひとつにして国家の罪のゆるしを願いました。神殿の庭に賛美と喜びの声が鳴り響くと礼拝者たちは罪と背信のつなぎから開放されていることを感じました。

それから、改革は続けられ、王は過ぎ越し祭を行い、ユダ、イスラエル両王国から人々を招待し、彼らの心は一つになり、おびただしい数の燔祭や酬恩祭がささげられ、律法の書に書かれている通りに行われました。主にあっての一致による神の祝福は予想もできないほど豊かです。

ヒゼキヤは、「ユダ全国にこのようにし、良い事、正しい事、忠実な事をその神、主の前に行った」「彼がその神を求めるために神の宮の務につき、律法につき、戒めについて始めたわざは、ことごとく心をつくして行い、これをなし遂げた。

と記録され、これまでの聖書にはこのようなことが書かれている箇所をほかに見ることができません。

 

今日はここまでです。

 

アーメン!!

 

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| 歴代志下 | 05:00 | comments(0) | - | - | - |

水曜日 9月23日 愛の要求

★IIコリント5:14

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。

 

このパウロの言葉は、彼自身のキリストに対する愛の感じ方を表している言葉です。この聖句に出会った数十年前の時のことを忘れられません。パウロの思いを鑑みることのできる美しくて強いみ言葉だと思いました。そう思えることも嬉しかった。

人間は一度は死にます。同じ生きるならば、死んでも生き返らせる力をお持ちの深い愛の主と共に生きるほうが価値があると思いませんか?

 

問6 ヨハネ21:15−19を読んで下さい。.ぅ┘垢魯撻謄蹐法△匹里茲Δ兵遡笋鮖暗戮覆気い泙靴燭。△修靴謄撻謄蹐呂匹里茲Δ謀えましたか。なぜイエスはこの質問を三度もペテロになさったのですか。

 

★ヨハネ21:15−19

15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう
」。
19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

 

,療え:「わたしを愛するか、わたしの羊を飼いなさい」という質問です。

△療え:「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えています。

の答え:ペテロの否認を赦されたこと。ペテロの将来の仕事が多くあることの自信を取り戻させるため。

 

「愛の応答」という言葉を学んだのは、今から10年くらい前の安息日学校のテキストでした。テキストの説明を読むと心が温かくなります。ペテロの「愛の応答」を三度、確認することによって、弟子たちの前で、彼が赦されたことと、また今後のペテロの仕事の重要性を示し、その自信を彼に取り戻させようとされた!!ということでした。

 

問7 ヨハネ21:15−19を読み直してください。今回は特に、キリストへの愛を断言するペテロにイエスがどう答えられたかに注目して下さい。イエスはペテロに、どうするように言われましたか。

 

わたしの小羊を養いなさい、わたしの羊を飼いなさい、わたしの羊を養いなさい。わたしに従ってきなさい

 

やはりここに、品性改革が隠されていました。真の回復は、心が岩の上に砕かれることです。

三度の否認は、イエスによって、三度ペテロの心の中を探るメスを入れられることによって、神に生きることが明示されたと説明が書かれていました。

 

ペテロという人物は、落ち着きがなく、自慢好きで、自信過剰であったのですが、イエスの三度の質問によって、心砕かれたのです。かつて自分が裏切ったイエスに全く従う者と変えられました。イエスは彼を拒まれなかった。それは、彼にとっては光であり、慰めと祝福です。

 

彼が亡くなるのは、逆さ十字架でした。『キリストの苦難に近い苦しみを味わった彼は、「人の子がその栄光の座につく時には」、キリストの栄光にもあずかるのである。』(YI 1898年12月22日)

 

私たちも何度もつまずき、苦しみもがき、祈り赦しを得て再び立ち上がります。

 

 『「主よ、あなたはすべてをご存知です。・・・・」と言って岩の上に落ちた。

   これこそ、真理と正義を拒むことによって神を辱め、キリストのみ心を痛めたすべての魂が直面しなければならない働きである。もし試みられた魂が試みの過程に耐え、試験下にあって、自我が生命に目覚めて狂うを覚えることがなければ、その心を探るメスは、魂が本当に自我に死んで、神にあって生きていることを明示するのである。・・・・

 キリストはペテロの回復に対する最も力強い確信を示された。そして彼は羊たちを養うよう委託されただけでなく、小羊たちーこれまで彼に任命されていたものよりも、更に広くて難しい働きーを託された。他の人々に命の言葉を与えるだけでなく、群れに羊飼いになるのであった。』(同上)

 

伝道を続けることも、品性が関係します。

聖書を学ぶのは、そこに描かれている人物たちの心の変化を学ぶのです。その学びによって私たちは良い影響を受け、私たちも神のみわざのために変革していきます。彼らの心の状態を知りたい、なぜなら、私も変革していただきたいからです。それは最終的には天のみ国に繋がっています。

知識があっても、愛がなければ変革はないと思います。み言葉を学ぶ時、私の場合は、そこにポイントを置いています。

岩の上に砕かれましょう。

主は私たちにペテロと同様、この世が続く限り私たちの世での命がある限り、まだまだ羊さんを捜し、養い育てるよう、願っておられるのではないでしょうか。

 

今日も良い学びを感謝します。

 

 

アーメン!!

 

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| 安息日学校聖書研究 | 07:04 | comments(0) | - | - | - |

火曜日 9月22日 パウローーー神に選ばれた器

パウロは12使徒に選ばれた人ではありませんでしたが、イエスに選ばれた福音宣教者として、使徒たちと共に非常に強力な働きをした人でした。ユダヤ人でありながら、ローマの市民権をもち、当時の最高の教育を受けた人でしたが、キリストとの出会いによって、彼の人生は全く変えられてしまいました。印象的なのは、肉体のとげが与えられたこと。それは、高慢にならないようにとのイエスからの贈り物でした。彼の命がけの福音宣明によって彼の行くところでは多くのみ言葉が伝えられました。また当時の各教会へ送った手紙も聖書に含められ今日私たちは多くの霊的恩恵を受けています。

 

 

 

問4 使徒言行録9:3-6、10-20を読んで下さい。これらの聖句は、イエスがパウロの人生に対して神聖な目的を持っておられたことを、いかに明らかにしていますか。

 

★使徒言行録9:3-6、10-20

3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう
」。

 

10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。
11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。
12 彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである
」。
13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。
14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです
」。
15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう
」。
17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
19 また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
20 ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。

 

キリスト教徒たちを迫害していたパウロを主は器として選ばれました。

パウロが彼らから信頼を受けるまでそう時間はかかりませんでしたが、アナニヤを通して、再度奇跡によってある程度の視力の回復とキリストの追随者としてのバプテスマを受けました。アナニヤもイエスからメッセージがあっても、すぐには信じませんでした。

また、パウロには「わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」とイエスが言われたとおり、彼の宣教人生は命がけだったのです。

 

テキストには、パウロの黙っていられなかったのは、キリストの素晴らしさとかれていました。それが命がけの宣教の動機付けでした。その他多くの聖書に登場する人物たちも同様です。いずれも、何某か心の問題を抱えていた人々であり、メシヤを待望していました。しかしキリストに出会い、それは輝かしい希望へと人生を変えられたのです。これらの人々も黙っていられませんでした。

 

私は、パウロは確かにイエスに選ばれた器でしたが、彼の人生を考えると、キリスト者の道は楽ではないことがわかります。

いばらの道、狭い道です。命さえ落とすかもしれないのです。神に選ばれし器とは、そういったことを超越することのできる人物であると思います。主による希望、福音というのはそれほど強力です!! アーメン!!

 

 

 

問5 使徒言行録28:28−31とIIテモテ4:5−8を読み比べて下さい。これらの聖句の中で、魂を勝ち取る働きのためにキリストに生涯をささげたパウロの献身が揺らがなかったことが、いかに示されていますか。

 

★使徒言行録28:28−31

28 そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。
29 〔パウロがこれらのことを述べ終ると、ユダヤ人らは、互に論じ合いながら帰って行った。〕
30 パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、
31 はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。

 

★IIテモテ4:5−8

5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい
6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

 

パウロは出会う人を選ばず、誰でも彼のところに来る人に、教え続けました。

彼の福音宣明の仕事が終りに近づいた時、それは処刑でした。伝道者のわざには、苦難があること、自分を犠牲としてささげることが含まれていることがわかります。しかし、信仰を守り通した者には公平なお方が義の冠を与えて下さる保証をしています。

 

これの聖句はユダヤ人だけでなく、異邦人に向けられた言葉でした。

サタンはこれらの人々に処刑という恐ろしい世の判決を与えましたが、それでも福音は世界に広がり今日私たちはその祝福に預かっています。サタンは失敗したのです。

 

これらの信仰や伝道の模範者たちによって私たちも動機付けや勇気をいただくことができます。

最後まで諦めずにクリスチャンとしての生き方をしっかりと生きていかねばなりません。二つに一つしかありませんから。

 

 

 

■囲みの質問

 

何をするように神はあなたを召されましたか。あなたはそれをしていますか。

 

聖書をはじめて手にした34年前、すぐに全部は読めず、あちこち点々と読んでいました。本格的に読み始めるまでに、5年もかかりました。読み始めてわからないでも、感動を覚えていました。その後、いろいろあって、EGホワイトの本を手にしたのは、その12~3年後、主人の教会に移ってしばらくしてから、手にすることができました。それもすぐに読み始めて、感動の連続・・・。主人の仕事の都合で引越しが多く、伝道もままならなかったので、SNSで聖書とあかしのふみから書き始めました。その後ブログに移動し、10年を越えてしまいました。

 

その時、私は一人で伝道に出ることはできないので、ブログを伝道のかわりにして下さいと厚かましくも祈りました。それで私の場合、主から召されたかどうかわかりません。ただ私は、キリストのみ言葉ヨハネ3:16や、マタイ28:19-20によって使命感がずっとありましたので、じっとしていられなかったのです。文章を書くのは苦手だったのに、不思議ですね。

世界中からアクセスがあり、感謝です。

 

 

アーメン!!

 

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